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個人の感想です。

酒とマンガと嵐があればだいたいしあわせ

瓶子と平氏をかけまして

にっき 歴史

僧名って似たようなのばっかで覚えるの苦手なんだけど、宇治拾遺読んでたら俊寛と静観がごっちゃになって「あら?鹿ヶ谷は誰だっけ?」とわかんなくなっちゃったのでちょっと検索してwiki読んでたら「建春門院の死」部分がすごいわけわかんなかった。

鹿ケ谷の陰謀 - Wikipedia

安元2年(1176年)後白河法皇は50歳となり、正月から祝いの行事が続いた。平氏一門も法住寺殿の宴に出席して、法皇との親密ぶりを誇示した。しかし6月に妻の建春門院の病状が悪化して、7月8日に死去した。相前後して、嫁の高松院(姝子内親王)・孫の六条上皇・弟嫁の九条院(藤原呈子)が亡くなり、政界はにわかに動揺する。

建春門院は平清盛室時子の妹で後白河院の后、高倉帝生母。

姝子内親王が「嫁」表記なのは後白河院の子・故二条帝の中宮だったから?でも後白河院にとっては異母妹にもあたり、二条帝よりも後白河院と親しかったようだから嫁呼ばわりには違和感しかないわ。

六条帝、藤原呈子(近衛帝中宮)崩御を列記するのはつまり美福門院派の皇族が相次いで亡くなったせいでパワーバランスが崩れたとしたいからなんだろうか(それぞれ美福門院の、姝子内親王は実子、六条帝の父帝・二条帝と藤原呈子は養子)。そしてこれまた孫はともかく弟嫁って…。後白河院からしたら異母弟の后である前に先帝中宮なんだから皇太后のようなものでしょうよ。

追記:ようなものってか皇太后だったし。(平頼盛 - Wikipediaより)

憲仁親王立太子直後の28日に頼盛は皇太后宮権大夫に任じられているが、この時の皇太后は藤原呈子だった。

のちに院号宣下を受けて皇太后を退く。

仁安3年(1168年)3月、呈子が院号宣下を受けて九条院となったため、頼盛は皇太后宮権大夫を辞任する。この院号宣下は后位に空席を設けるための追い出し工作であり、入れ替わりに滋子が皇太后となる。

※憲仁親王は高倉帝、滋子は建春門院のこと。頼盛は清盛異母弟(母が池禅尼)。

 

女御や中宮を嫁とかいう表現にも抵抗あるけど、それにしたって相関や因果関係がわかりにくい。

 

まず母・建春門院の死により、皇子のいない高倉天皇の立場が不安定となった。

これもよくわからん。後白河院との対立が深くなるのはまあわかるにしても、既に徳子が入内してて清盛の後ろ盾がはっきりあるのに「皇子がいないから」立場が不安定になるってことはないだろう。しかもまだ17歳くらいと若く、後嗣がないことを危ぶまれるような年齢でもない。

 

なんかこの冒頭部分だけ解説としてものすごくびみょうで気になった。(ほかはまとも)